「積読」(つんどく)という自分流の読書法を長年やってきました。本を買ったら「読む」と言うより、部屋中に「積んで置く」というやり方です。一種の自分流本との付き合い方です。本は読みますが、世に言う「読書家」とは程遠い存在です。何故なら「読むのが実に遅い」、「しきりと本に書き込みを入れる」、「飛ばし読みが下手」などの理由があるからです。本を早く読む人を見るといつも羨ましく思います。
ただ、本との“出会い“は人との“出会い“と同じであると感じることが大事だと思っています。「本を読む」というよりは「本と対話する」感覚です。本との関係は読んだら終わりということではなく、繰り返し、繰り返し、出会う。その都度、新たな発想が降りてくる。
具体的には、先ずは、タイトルと目次、著者の経歴、書評などから「何らかのご縁がある」と感じられた本を買います。買った本の多くは読みきりません。中にはタイトルだけで買い、ページを開いていない本も多数あります。それらを“積んで置く“訳です。結果、部屋の中は多くの本が雑然と積み上がったカオス的な状態になっています。これが本との出会いの空間を作り出します。
朝起きてふっと目についたタイトルに引き寄せられ、その本に手を伸ばす。本を開くとすでに7年前に完読したことに気づく、パラパラとページをめくって行くと傍線が引かれている箇所や手書きで書き込まれた文章が目につく。本に残された過去のそれらの痕跡を追っていくと最初に読んだ時とは全く違う印象が生まれ、新たな発想が降りてきます。それは最後に読み終わった時から今に至るまでに自分の中に蓄積されてきた“経験“により、こちらの受け取る側の感度がより高まった結果だと思います。
よく若い時分に読んだ古典の本が当時はちんぷんかんぷんで理解不能だったのが今読むと「わかる!」といった感じです。”旧友と出会い、久々に話をした”感覚です。
「積読」を行う上で重要なことは、先ずは本を部屋中に「積んで置く」、読書空間を確保することが不可欠になります。部屋じゃなくても構いません。昔、押入れとかタンスの中などを利用した記憶があります。そして本との“出会“を人為的に行うのではなく、偶然性に任せる開き直った姿勢が必要です。本との偶然の出会いを楽しむことです。規則的に本を選ぶのではなく、考えずに選ぶことが基本です。
自分にとっては、この自分流読書術である「積読」は、何故か大変心地がいい。本を読むぞと構えなくていい。本との日々の出会を楽しめる。本との対話を繰り返す中で、結果、沸々と活力が湧いてきます。自分を活性化する一つのの方便だと思っています。そこには人との出会いに通じるものがあります。
ただ一方で、本と向き合う際に、いくつか気をつけていることがあります。
一つは、「知識よりも発想」です。知識は大切ですが、ネット社会では情報入手の方法は多様であり、「本」に知識を求める時代ではなくなっています。これからは“知識“を蓄積するより、“発想“を積み上げ、その“発想“で自らを武装する。そして人生を生き抜いていく時代です。
長年、自分の読書に対してある種の劣等感を持っていましたが、その原因は本に知識を追い求めたことでした。そのため、読むのが遅い=知識習得が遅いと思い込みがちでした。「積読」も読むのが遅いから本が積まれていくのだろうと思い込んでいました。ところが最近は自分が培ってきた「積読」という読書法が実は発想を創出するのに有効であることに気がついた訳です。
二つ目は「本に読まれるな!」です。
「しばらく本を読むのも良いが、できるだけ早くそれを擱く(おく)ようにしないといけぬ。本を読むことを止めぬと、文字の学問だけをやるような癖になる。」鈴木大拙。
世界に禅を普及させた鈴木大拙の言葉です。
万巻の書を読んできたがごとく、本を手当たり次第読んでいるような人にたまに出会います。機関銃のように口から多くの言葉が休みなく飛んできます。一瞬、その言葉の連射に怯むのですが、しばらくすると相手の話している内容が実に空虚に感じられてきます。その原因は語っている言葉が全て借り物の言葉で「自分の言葉」になっていないからです。これが「本に読まれる」ということです。
本との対話は一種の「格闘技」です。「読むか、読まれるか」の真剣勝負です。
本田宗一郎も鈴木大拙と同様に知識に対する警鐘を鳴らします。
「知識は役に立たねばただのお荷物。本に書いてあることは、みんな過去のこと、だからただ鵜呑みにしてはならない。未来に役立たない知識なら、それらを捨ててこそ、未来が考えられるのである。」(本田宗一郎)。
「本に読まれる」とは、本の内容を鵜呑みにすることです。知識として得たものを、今一度、自分の中で腹落ちさせる。そこから新たな発想を生み出す。これが知識の自分ゴト化です。知識を役に立たせるとは発想を掴むことです。これがないと「自分の言葉」は出てきません。知識の鵜呑みからは発想は生まれません。
最後は、「経験という本を読む」ことです。
本田宗一郎は徹底した実践の人でした。現場・現実・現物と真剣に向き合い、「経験」というチャネルを通じて創意工夫を凝らしてきた人でした。言い換えれば、経験という本を絶えず読んでいた人でした。
「学んだことはすぐ実践。見たり、聞いたりしただけの知識は本物ではない。大切なのは、それをすぐに実践で試してみることである。そうすれば本物の知識が宿り、創意の芽も自然に生まれてくる」(本田宗一郎)。