(前回はこちらから)
広義のロビイングから考えると、当時のホンダのワシントン事務所はどちらかと言うと情報収集が中心であった。
情報収集といっても排ガス規制、安全基準など自動車は様々な規制や基準を満たすことが求められており、これらの情報を適宜入手、車の研究・開発につなげることは必要不可欠であった。
トヨタ、日産が有名ロビイストを採用、ホンダよりも積極的に活動していたが、それでも日米間の自主規制交渉の動向をロビイストを使って探ると言った情報収集のレベルを超えるものではなかった。
状況が変わってきたのは、日本勢が現地生産拡大に本腰を入れ始めてからである。
現地生産ではホンダが先行していた。
1979年には、オハイオ州メアリーズ・ビル工場で二輪車の生産を開始、四輪車は1982年に生産をスタートさせていた。
Big3(GM,Ford,Chrysler)や組合であるUAWなどのアメリカ勢からすれば、折角、日米間の自主規制によって日本車の輸入を制限したのに、現地生産をやられては元も子もない。
そこで現地調達率法案という米国部品の比率が75%に満たない日本車はアメリカで生産されても輸入車扱いとなる内容の法案を議会に提出してきた。
これは日本勢にとってはたまったものではない。
せっかく苦労して現地で車を生産しても、輸入車として扱われてしまっては、自主規制の枠内に入ってしまう。
現地生産をふやせば、日本からの輸入を減らさざるを得ない。
日本車のアメリカ市場での人気は凄まじく、高いプレミアムがつくほど需給が逼迫している。
車を供給さえ出来れば売れるのである。
現地生産分が追加供給にならないと米国での事業戦略の大幅な見直しを迫られることになる。(つづく)
*「戦略コミュニケーションの温故知新」。このシリーズでは一度、原点回帰という意味で私のコミュニケーションの系譜を振り返り、整理し、そこから新たな発想を得ることが狙いです。コミュニケーションの妙なるところが伝えられれば幸いだと考えます。(前回はこちらから)
~~~~~~~~~~~~~~~筆者経歴~~~~~~~~~~~~~~~~~
田中 慎一フライシュマン・ヒラード・ジャパン 代表取締役社長
1978年、本田技研工業入社。
83年よりワシントンDCに駐在、米国における政府議会対策、マスコミ対策を担当。1994年~97年にかけ、セガ・エンタープライズの海外事業展開を担当。1997年にフライシュマン・ヒラードに参画し日本オフィスを立ち上げ、代表取締役に就任。日本の戦略コミュニケーション・コンサルタントの第一人者。近著に「オバマ戦略のカラクリ」「破壊者の流儀 不確かな社会を生き抜く”したたかさ”を学ぶ 」(共にアスキー新書)がある。
☆twitterアカウント:@ShinTanaka☆
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