2017年12月5日火曜日

コミュニケーションを極めて行くと「強かさ」の本質が見えてくる:戦略コミュニケーションの視座から考える

コミュニケーションを極めて行くと「強かさ」に行き着く。戦略コミュニケーションの発想とは「強かに」生きるための発想である。人間は基本的に3つのことしかできない。「感じる」、「発想する」、「身体を動かす」。“言葉を語る”のも行動である。その行動の一つひとつが周りを動かし、世の中に影響する。結果、自分の人生も動いていく。
戦略コミュニケーションの発想では、この人間の3つの働きを「受信・戦略・発信」と言い換える。つまり、人間活動とはコミュニケーションそのものとなる。そして、コミュニケーションの巧拙が人間活動の「強かさ」を左右する。コミュニケーションは神様が人間に授けた強かに生き抜くための生存力と言っても過言ではない。しかも、コミュニケーションを強かさのパワーとして発揮するための潜在的資質は誰もが持っている。要はそれらをどう覚醒させていくかが勝負である。

ところが、世の中を見ると、強かに生きている人もいれば、そうでない人など千差万別である。この差はどこから来るのか? それは、ズバリ「受信」のところで勝負が決する。つまり、何を感覚するかで、何を発想するかが出てくる。何を発想するかでどう行動するかが決まる。重要なのは眼の前で起こっている事象・事態をどう感覚するか、そこで独自の世界観を持てるかどうかが出発点となる。それによって独自の発想が生まれ、最終的には行動としての「強かさ」を紡ぎ出す。自分の感覚を磨き鍛えることが人生を面白くする。

そこで、強かな“感覚”をどう鍛えるかについてひとつの工夫を紹介したい。

心を“ゼロ”にする
コミュニケーションの要諦は相手を知ることである。完全に相手の身になって発想することができれば相手を動かすことは容易になる。
ところが相手を知ることを一番邪魔する最大の敵は自分である。
自分の好き嫌い、偏見、思い込み、利害などの“煩悩”が邪魔して、相手を知ることを阻む。実績をあげて成功すればするほど自分の我儘度合に拍車がかり相手を素直に受け入れられなくなる。自分の“心”ほど自由にならないものはない。
思い込みは、ある意味ブレないリーダーに取っては重要な資質でもあるが、一方で相手を知る上での障壁ともなる。ここをどうバランスをとるかが肝要になる。そのために自分の心をマネージすることが大切になってくる。相手との対話の前に先ずは自分との対話が重要になる。
それには心を“ゼロ”にする工夫を考えることである。すると相手が見えてくる。「見える」というより「観える」。相手の背後にある見えない風景が鮮やかに観えてくる。そもそも“空気を読む”とは見えないものを見抜くことである。相手がどのような視点や発想をもっているのか。どのような世界観を抱いているのか。どのような相手から影響されているのか。どのような課題を抱え込んでいるのか。それにどう対応しようとしているのか。などなどがジワジワと見えてくる。

概して、優れたリーダーは自分との対話のために必ず何らかの“儀式”を持っている。独自の儀式によって心を“ゼロ”にする工夫をしている。
石川播磨重工、東芝を再生、経団連会長になった“メザシの土光さん”の異名を持つ土光敏夫氏などは早朝お経を唱え、メザシの朝食を摂る。
これが土光流の儀式である。早朝ランニング、呼吸法、ストレッチ、茶道など身体を動かす儀式などは良く聞く話である。
ある業界大手のトップは「スケジュールを書かない手帳」をひとつの儀式にしている。手帳に気づいたこと、新たな発想や経験、感動したことなどを毎日こまめに書き綴って行く。1年経つと新たな手帳を購入、今度は古い手帳の1年前の日付の内容を新しい手帳に書き移す。もちろん、取捨選択をしながら書き移し、新たな発想や考えは書き加える。これは1年前の自分との対話である。

もうひとつ面白い例を挙げる。2005年、俗に言う「郵政選挙」に財務省を辞めて立候補するも落選、2009年の政権交代選挙に当選するまでの4年間地元行脚をした政治家の話である。先輩議員から「お前は人を見定めるきらいがある」と忠告される。財務省での仕事柄、人と会うと自動的に相手を見定めてしまう。これが非言語で相手に伝わり印象を悪くする。そこで考え出したのが「ラブラブ光線」である。
応援者の方々に挨拶行脚する際にこのラブラブ光線を放射するのである。相手がドアを開けた瞬間に放射する。どんな人が出てこようが「I LOVE YOU」と心に言い聞かせ放射する。これはなかなかの難業である。しかし、彼は6ヶ月でこの「ラブラブ光線」を完成させる。
心の底から思い込むと不思議なもので非言語を通じて相手に伝わる。人間は初めの10秒で初対面の相手の印象を決めてしまう。最初の10秒で相手に好印象を残すことが重要である。

「世界は我々が見ているものであるが、しかし同時に“我々は世界の見方を学ばなければならない”」
「ヘーゲル以降」を生きる哲学者として異名をもつM.メルロ・ポンティの言葉である。
欧米化、グローバリゼーションの風潮の中で、世界に勝つための方法論だけでなく、世界観までも借り物になっている日本のリーダーが目立つ。一見、聞こえの良い世界観を唱えるが、中身はグローバルから借りてきた横文字の言葉で羅列されているだけである。
方法論は客観的に判断、取捨選択をすれば良いが、それらを使い何を実現するのか、それによって何が変わるのかという自分の世界観は借り物ではダメである。強かさの本質は先ずは自分の目の前で起こっていることをどう見るかである。そこが借り物では全てが崩れる。感覚を磨く。事態を直覚する。知識の呪縛を排除する。自分の心をゼロにする。ここに強かさを発揮する真理がある。

2017年10月31日火曜日

「強かな」立ち位置とは何か? 戦略コミュニケーションの視座から考える

グローバリゼーションという異種格闘技戦が国内外で本格化する中でリーダーも企業も「強かな」立ち位置をつくることが生き抜くための鍵を握る。そこで重要なことは強かな立ち位置をつくれるだけのしっかりとした“根っ子”があるかどうかである。根っ子のない立ち位置などはこのグローバル化という旋風に晒されれば、どんなに規模が大きく、有名で実績があったとしても「あっ」という間に吹き飛ばされてしまう。
“根っ子”とは、そのリーダーや企業が持っている独特な感覚・発想・表現である。強かな立ち位置を持っているリーダーや企業には、必ずこの独自な“根っ子”がある。
戦略コミュニケーションの視座から言い換えると受信・戦略・発信である。所詮、人間も企業もその生存活動を煎じ詰めれば、この3つの機能に絞り込める。
先ず、どう今の世界を感覚(受信)するか、それに対してどう発想(戦略)するか、その発想したことを実現するためにどう表現(発信)するか。この3つの機能を独自性を活かしどのように設計し、そのプロセスを確実に仕切るかがリーダーにとっても、企業にとっても強かな立ち位置をつくるための必要不可欠な“資質”である。

日本のリーダーや企業はこれから国内外でその立ち位置の「強かさ」がますます問われてくる。その“根っ子”は借り物では用をなさない。日本特有の価値観の中で培ってきた独自の“持ち味”から「感覚する」「発想する」「表現する」ことがどうしても必要になってくる。日本のリーダーや企業が世界に伍して行くには、その“持ち味”を遺憾なく発揮できるところで勝負するしかない。

そもそも「強かさ」(したたかさ)とは何か?同じ漢字でも「強さ」(つよさ)とはそのニュアンスが違う。英語には「強かさ」に匹敵する表現が見つからない。StrongやPowerful ではどうもしっくりこない。これらの用語はその力の行使が直接的、直線型であるのに対して「強かさ」はより間接的、曲線型であるイメージを持つ。
あえて言えばResilience(弾力性がある)とFlexible(柔軟性がある)の要素を加えると近似的になる。「強かさ」には狡賢い、正直でなない、一筋縄ではいかないなどのネガティブな要素とプロセスはどうであれやり遂げる、めげない、てごわい、最後は勝つといった積極的な側面があり、これらの要素が渾然一体となっている。
「強かさ」とは欧米流の考え方では完全には捉えにくいニュアンスを持っているのかもしれない。何れにせよ、「強かさ」の本質をしっかりとおさえ、自らの“根っ子”の部分を見極めることである。強かに感覚するとは何か、強かに発想するとは何か、強かに表現するとは何か。
絶えず自問自答する。その中から「強かさ」を体得する道筋が見えてくる。

「強かさ」と問われると、何時も思い出す語句がある。
禅の言葉である。
それは「融通無碍自由自在、随所に主となれば立処皆真なり」である。
どんな場合でも、どんな状況でも、どんな時でも、誰に対しても、何事にもとらわれず柔軟に主導性を発揮するという意味である。
仏教に影響を与えた紀元前4世紀の中国の古典「老子」がある。その中でこの禅の言葉の本質を「究極の強かさの象徴は“水”なり」と表現している。
老子は水の「強かさ」を3つの特徴でまとめる。
① 水はどんな容器にも自らの形を合わせる。究極のフレキシビリテーを発揮する。
② 水はいざという時は大きな岩をも削り取る力を創出する。
③ 水は周りにとって無くてはならない存在であるのに自己主張はしない、威張らない。
ある意味で、そこには東洋的な視座からの「強かさ」の本質が示されている。
誰に対しても、どのタイミングでも、どの環境でも融通無碍自由自在に期待に応える。
しかし、周りの言いなりになっている訳ではない。いざという時には大きなインパクトを与える力を発揮する。
結果として、「無くてはならない存在」になる。でも自分は偉いぞと主張せず威張らない。

今後、企業のグローバル生存を賭けた立ち位置の戦いが始まる。日本のビジネスリーダーや企業は日本人特有の感度、感覚、発想をベースにその立ち位置を作り込むことが求められてくる。欧米流とは違った独自の強かさを発揮できる立ち位置で勝負することが至上命題になる。

2017年8月27日日曜日

グローバリゼーションの本質は“想定外”、“掟破り”、“場外乱闘”

有事365日の時代のビジネス戦争に勝つためにはコミュニケーションを経営戦力とする発想が求められる

“グローバリゼーション”という世界規模のビジネス大戦争が始まっている。2020年は日本企業がグローバリゼーションの戦いに本格参戦する象徴の年という認識が定着しつつある。従来の中期計画の枠を越えてプラン2020を持つ企業が増えているのもそれが背景にある。2020年はオリンピック以上に日本のビジネスにとって意味深い年となる。それまでにどれだけ、グローバル大競争への備えを準備できるかがポスト2020年の日本企業のグローバリゼーションの命運を握る。

その波動の中で多くの日本企業が従来のビジネスモデルでは戦えないという自覚が出てきている。
従来の事業モデルが生み出すバリューで本当に世界で戦えるのか? 国内外を問わず今の社内意識で世界と互角に伍せるのか?
築き上げてきたブランドのままで新たな顧客層を取り込めるのか?持続可能な社会に対する地球規模での関心が高まる中で従来のCSR活動のあり方はどう変えればいいのか?グローバリゼーションが本格化する中でグローバル企業としての立ち位置をどうつくっていくのか?
これらの課題を解決する処方箋を2020年までには目処を立てることが日本企業に求められている。

一方、企業間“競争”の次元も変わってきた。“場外乱闘”という事態が始まっている。従来のように「市場」というリングの上で、廉価で良質の商品・サービスを提供、マーケットシェアを高めるだけでは市場で勝てない事態になっている。市場というリングの外で競争相手を引きずり落とす掟破りなやり方が横行している。企業間同士の訴訟戦争がグローバル規模で拡大する。当局や世論を動かして競争相手を不利な競争条件下に置く。投資家や株主を囲い込み、敵対的M&Aや委任状争奪戦を仕掛ける。
既存のビジネス市場に無料でサービスを提供、圧倒的シェアを確保、別のビジネスで稼ぐ。社会主義国がグローバル化の主戦場になる中で企業間競争の中に国が乱入してくる。戦略的に競争相手の営業秘密や人材を盗む。
正にビジネスにおける戦い方のパラダイムシフトが起こっている。
多くの日本企業はこの掟破りな攻撃に対して戸惑う。何故なら、この状況を仕切る、あるいは逆に仕掛けるアドバイザーやコンサルタントが日本では圧倒的に欠如しているからである。従来のような正攻法的なビジネス競争を前提としているコンサルティングでは太刀打ちできない状況になっている。

加えて、経営を取り巻く環境が「鬼は外、福は内」から「鬼は外、鬼は内」へと変貌している。鬼は社外だけでなく、社内にも潜んでいる。終身雇用の終焉、多様なキャリア志向への傾向などが社員の帰属意識を希薄化している。
良し悪しはともかく内部告発は日常化している。グローバル展開が進むに従い社員の日本人比率が急低下、組織全体の求心力が弱まってくる。逆に、日本人社員の意識がグローバル化を進める上で最大の障壁となる。グローバル戦略の一環で海外の企業を買うもカルチャーの軋轢、現地経営陣との対立などで失敗する。社内に話したことが社外にダダ漏れでレピュテーション毀損が起こる。購入していた部品が突然リコールでクライシスに引きずり込まれるなどサプライチェーンがやばい。
正に“内輪の世界”の激変が起こっている。経営において長年培ってきた社員やサプライヤーとの信頼関係はもはや十分条件ではない。また、「社内のことは社内が一番知っている、社内のことは社内でやる」という自前主義が企業を崩壊させる時代になってきている。この発想の転換は否が応でもでも日本経営は迫られてくる。

グローバリゼーションを機にビジネスの世界は有事365日の時代に入った。24時間大小様々なクライシスが起こっている。それらを事前に察知しながら手を打っていく、未然に摘み取っていく有事対応への意識と体制が必要となる。製造業で戦後最大の破産の元凶となったタカタのエアバッグリコール問題は米国で公聴会が開かれるなど2014年に公に騒がられるようになったが、2000年代の初めにはすでに問題の兆候があり、そこで手を打っていれば今回のような事態を回避できた可能性はある。最早、企業は平時の経営から有事の経営に意識を切り替えることがグローバリゼーションの大競争時代を生き抜くための必須条件になってきている。

この有事経営の最大の武器がコミュニケーションである。コミュニケーションを有事対応の“盾”とする。コミュニケーションを戦略実行の“矛”とする発想を持つことが必須である。コミュニケーションを“力”として認識する。そもそも、コミュニケーションとは神様が人間に与えた生き抜くための力である。企業も意識するかしないかにかかわらず、その力の恩恵にあずかっている。ただ、それを力と意識して使うことがコミュニケーションを経営戦力にする。コミュニケーションの経営戦力化なくしては日本企業のグローバリゼーションは覚束ない。

2017年2月14日火曜日

戦略コミュニケーションの発想から見るリーダーシップ論とは

リーダーシップの本質は意識との戦いだ。それを発揮するには“武器”が必要だ

武蔵と小次郎、巌流島の戦い。上段の構えから木刀を振り下ろす武蔵、それを八相の構えで長刀で迎え撃つ小次郎。

これが自分がリーダーシップ研修をする際の表紙の図柄である。
グローバル化が急速に“侵攻”する中でリーダーシップを求める声がビジネスの世界で再び連呼され始めている。リーダーシップについての議論は今に始まったことではない。この20年、百家争鳴、様々なリーダー論が世の中を賑わした。しかしながら、どうも腹落ちするものが少なく、消化不良気味なものが多い、「べき論」はあるが「実践論」が弱い感が否めない。
この20年、リーダーシップ研修をトップから中堅、若手まで様々な業界で幅広く実施してきた。その中で戦略コミュニケーション®の発想から見たリーダーシップ論はかなりイケると実感している。
武蔵と小次郎の対決をリーダーシップ研修の冒頭に出す意図は、リーダーシップの本質は意識との戦いだ。それを発揮するには“武器”が必要だ。敵をしっかりと倒す手法が不可欠だ。その武器を磨く日々の修練が大事だという視座を知ってもらうためである。
更には、リーダーシップの武器論というよりも“武器”そのものをどう作っていくかに議論のフォーカスを当てることを狙いとしている。

リーダーには人の意識を変え、それを動かす力学が必要だ

そもそもリーダーシップとは何かと聞くと、ビジョン・志・思いなどを持っているという要素説。人間的魅力、尊敬される、公正・公平に思われるなどの性善説。導く、引っ張るなどの君子説などが多く出てくる。試しに、トランプ米国大統領はリーダーかと尋ねると「リーダーではない煽動者」という答えが案外に多い。煽動者と先導者をはっきりと分ける思考である。Leadership vs Dictatorshipである。
リーダーか煽動者かどうか、その定義論はともかくとして、実践的なリーダーシップ論を展開するのであれば、リーダーの使命は「事を起こす」ことであると認識した方が有効である。その起こした事をどう評価するかは別次元の話である。
人の世である限り、自分以外の人間を動かさない限り何事も起こらないのが世の常である。リーダーシップとは人を動かしてナンボの世界なのである。
人を動かす際に立ちはだかる最大の敵は相手の意識である。人の意識の壁を粉砕する武器がコミュニケーションである。
人を動かす方法は他にもある。相手に有無を言わせず動かす“武力”。人間の物欲に訴える財力も然り。法的、組織的なルールなどを決め事として強制する権力は日常的に行使されている。しかしながら、これらの力はそれを行使する際に“反作用”を生み出すという難がある。武力を使えばやり返される。財力は金の切れ目が縁の切れ目。権力は不満や嫉みを買う。この反作用が厄介なのである。
コミュニケーションの力は基本相手の意識に働きかけ納得・共感を得て動いてもらう。よって反作用が少なく、コストパフォーマンスが高い。有史以来、人間が人を動かすために最も使ってきた力なのである。

戦略コミュニケーション®という発想をもつ。人を動かす最強の武器になる

コミュニケーションを理解し合う、意思疎通をはかる、思いを伝える、相手の思いをわかるなど事象面での認識は意味がない。
「人を動かす力」であると意識することが肝要である。1人では生きていけないのが社会動物“人間”の性である。自分以外の人間に動いてもらわないと生きていけない。コミュニケーションとは神様が人に与えた生き抜くための力である。
日頃から空気のような存在であるため、コミュニケーションを力学として意識する事に慣れていない。折角与えられた力を十二分に発揮できないのである。これは非常にもったいない話である。コミュニケーションを力だと意識するだけでリーダーにとって最強の武器を手に入れることができる。
戦略コミュニケーション®とは造語である。戦略とコミュニケーションは表裏一体であるとする発想である。どんなに戦略が良くても、それを実現するために様々なステークホルダーが動いてくれないと実現しない。人を動かすコミュニケーション戦略がなければどんなに立派な戦略も絵に描いた餅である。コミュニケーション無くして戦略無しである。戦略もコミュニケーションもコインの裏表である。これからの戦略づくりは戦略ができてから、コミュニケーションをするのでは変化のスピードに遅れる。動かすステークホルダーの視点を予め抑えながらコミュニケーションの視座から戦略を作り込む時代へと大きく変わる。
個人の世界も同じである。自分の思いや夢を実現させ、人生を生き抜くために自分のコミュニケーション力学を磨きあげることが不可欠である。
戦略のコミュニケーションを持つ。企業も個人も人を動かす最強の武器を手にすることが求められてきている。