2023年11月24日金曜日

対話は格闘技、真剣勝負!戦いのコミュニケーションのすすめ

 対話は格闘技です。会話と違って相手を動かすための力の行使です。相手を動かすか、相手に動かされるかの真剣勝負です。

対話の目的はあくまで、こちらの意図に沿って相手に動いてもらうことで、議論して相手を打ち負かすことではありません。議論に勝っても逆に、相手は動かなくなってしまいます。

対話と言えば、普通は「仲良くする」「相互理解をはかる」などの表現で説明しますが、何故か「対話は格闘技だ!」と言った方が自分にはピンときます。実際のところ、トレーニングや講義では始まりの表紙として巌流島に在る「武蔵と小次郎」の戦いを描いた銅像の写真を良く使います。

 

何故、自分はこのように発想するようになったのか、その背景を考えてみました。 

そもそも仕事として「コミュニケーション」と出会ったのは戦いの中でした。ホンダにいた時です。

戦いとは1980年代、日米自動車通商摩擦です。アメリカで日本自動車メーカー(ホンダ、トヨタ、日産)の市場シェアが急増、米国車の販売が激減する中、米国自動車メーカーは従業員の大幅な一時解雇(レイオフ)に踏み切ります。結果、「日本自動車メーカーは不当な競争力で市場シェアを拡大、アメリカ人の雇用を奪っている」と言う一大反日キャンペーンが米国自動車メーカー(GM, Ford, Chrysler)や米国自動車組合(UAW)主導のもと全国展開され、反日世論が米国内に急騰します。

この事態の根本的な原因はアメリカの自動車市場の需要構造が大きく変わったことです。1970年代の2度にわたる石油ショックによって需要が大型車から小型車に急激にシフトしたことによります。当時、米国メーカーは小型車を作っておらず、小型車の代名詞であった日本車が飛ぶように売れる状況になります。 

反日世論が急速に拡大しているにも関わらず、日本車の販売は至って好調で、千ドル、二千ドルとプレミア付きでも売れる環境でした。ホンダは日本車の中でもブランドは高く販売への影響はありませんでしたが、反日世論の動向には非常な警戒感をもっていました。その理由は、ホンダの北米での「現地化戦略」の推進に支障をきたすのではとの大きな懸念です。当時のホンダの現地化戦略というのは販売に加え、生産、開発とアメリカで展開、一貫した事業体制の構築を目指すことでした。

 

私は反日キャンペーンが盛んに展開される中、1983年にアメリカでの広報部門立ち上げのメンバーとしてワシントンD.C.に赴任しました。与えられたミッションは「アメリカの世論をホンダの味方にする」ことです。

正直、途方に暮れました。今まで車をつくる現場や車を売る最前線は経験してきましたが、「世論を味方にする」など想像の枠外です。

試行錯誤の日々が続きます。7年かかりましたが、最終的には「アメリカの世論がホンダの味方になってくれた」を象徴する出来事が起こりました。

1989年秋にホンダ創業者本田宗一郎さん(当時82歳)が日本人として初めてアメリカ自動車産業の殿堂入りを果たしたことです。

この7年間の「戦い」の本質はBig 3GM, Ford, Chrysler)/米国自動車組合(UAW) vs ホンダの間でのアメリカの世論支持の奪い合いです。

その時に唯一頼れたがコミュニケーションでした。商品力、ブランド力、財務力などで消費者、販売店、投資家など一部のステークホルダーの支持は取り付けられますが、世論となると歯が立ちません。

結局、ホンダが企業として真摯に世論や社会と対話する以外には道がありませんでした。その中でホンダがアメリカの自動車産業やアメリカ社会にとって必要な役にたつ存在であると認知される、見られることがホンダのアメリカでの企業活動の生命線でした。

7年間に渡り、コミュニケーションを武器に戦った原体験が「コミュニケーションとは?」に対して

「格闘技です」と即答する発想のが付いたのだと思います。

40年以上に渡り、コミュニケーションの修羅場を潜ってきた経験値からは一つの実践的で有効なコミュニケーションへのアプローチ発想です。

2023年11月10日金曜日

信長のコミュニケーション力学とは ”その本質に迫る!”

戦国時代は世界でも稀に見る「戦いの世紀」でした。それは応仁の乱(1467年)が始まってから大坂夏の陣(1615年)が終わるまでの約150年間です。この間に日本の兵力基盤は世界有数に成長します。

16世紀当時、イギリスの総鉄砲数約6,000丁に対し、肥後の戦国大名・竜造寺隆信は約9,000丁所有していたと言われています。

また、当時、ヨーロッパで最も大きな国だったスペインの軍事力は78万人。それに対して、戦国時代に拡大した日本全体の軍事力は1525万人に上り、朝鮮出兵の際に豊臣秀吉が動員した兵力は15万人に達すると言われています。いかに戦国時代が武力衝突が日常化し、戦いに明け暮れた150年だったことかが分かります。

日本全体が「猫も杓子も」日々の戦いの中で生存を賭けて様々な「力」を模索する事態です。

すると、面白いことに、武力の増強以上に戦国大名と言われる日本のリーダーたちのコミュニケーション力が飛躍的に高まります。それは何故かと言うと、戦国時代は勝つためには猫の手も借りたい切羽詰まった事態だからです。

兵力を消耗する武力衝突を避けて、他に利用できる力を追い求めます。結果、行き着いた先が今で言う「コミュニケーション」(受信戦略発信を工夫する)です。人を殺すのではなく、人の意識を囲い込むことによって目的を達成すると言う”もう一つの選択肢を持つ発想が生まれてきます。人の意識を囲い込む最強の武器が「コミュニケーション」という認識です。

当時、戦い方が局地戦から総力戦の体をなしてきました。局地戦ではいざこざレベルの衝突で終わりますが、戦国大名同士の戦いは、”負ければ=滅ぶ”と言うことで猫も杓子も使い切って勝つという総力戦に移行します。すると、戦い方の「掟破り」が頻発します。従来のやり方とは違った方法で勝ちをとりにいく方向に急速シフトします。そこに武力だけではなく、コミュニケーションを絡ませることによる「勝ち方のInnovation」が起こるわけです。

戦国大名たちは彼らの受信戦略発信のサイクルを回す工夫を通じて総力戦に勝っていくことを宿命づけられ、否応なく、勝つためのコミュニケーション力を覚醒させていきます。現代を含めて歴史的に見ても、戦国時代ほど日本のリーダーたちのコミュニケーション力が高まった時期はなかったと思います。


戦国大名の代表格を挙げると、西から大友宗麟、毛利元就、長宗我部元親、織田信長、浅井長政、徳川家康、今川義元、北条早雲、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗など誰もが知る名前が出てきます。

そして、このリーダーたちの中でもコミュニケーション力がダントツに高いのが織田信長です。

信長というと「天下布武」と言うビジョンを掲げて武力で天下統一を目指したイメージがありますが、彼ほどコミュニケーションの力を駆使した戦国大名はいません。武力依存だけでは、天下統一の道筋を30年(家督相続から本能寺の変まで)という短期間でつくることは不可能です。

天下統一だけでなく、信長は日本を中世から近世を通り越して近代の一歩手前までもっていったリーダーと言えます。その後、徳川家康の天下になってからは日本は近世に引き戻された感がありますが、戦国時代の動乱を逆手にとって、多くの人々の意識を囲い込み、ある意味で日本人の意識の変容(Transformation)を成し遂げたリーダーとして日本史上、稀な存在です。

信長のコミュニケーション力学を支える要素とは何か。その本質については、これからも時あるごとに紹介して行きたいと思います。

そこには現代でも通用する戦略コミュニケーションの発想が数多く秘められています。

2023年11月2日木曜日

「立ち位置の原体験」“ホンダ“という神様が降りてきた!

昔話をします。誰しもいろいろな原体験を持っています。
自分自身もさまざまな原点となる経験を経て今日までに至っています。多くある原体験の中で自分が初めて「人間関係の原理・原則」を思い知らされた原点があります。

6歳の時に当時アフリカに南ローデシアという国がありました。今のジンバブエという国です。親の仕事の関係で日本人として初めて親子3人で移り住みました。当時の南ローデシアは英国の自治領として白人国家を形成しおり白豪主義を実践していました。白豪主義とは一種の人種差別政策で白人はホワイト、それ以外の人種はカラード(色つき)と差別され、ホワイト専用のレストラン、トイレ、居住区、学校などカラードとは別の生活空間が設定されていました。当然ながら、肌の色からすると日本人はカラードです。ところが、幸か不幸か日本人だけは名誉白人と認定されました。日本との国交が樹立されたことが背景にあります。

肌の色は黄色です、でも名誉白人だと明記したプラカードを肩からかけているわけでもないので、白人のトイレに入れば追い出される、レストランは入れてくれない。住む場所が見つからないなどなどの事態に見舞われました。学校は白人の学校しか存在せず、初めて登校したときは、校長先生の部屋で親同伴で挨拶していると部屋の大きな窓いっぱいに、白人の子供達の顔で埋め尽くされました。彼らにとっては一大事です。黄色い奴が入校してきたということで大騒ぎです。教室に入っても無視されるか、質問攻めです。英語もわからず、唯一、覚えた "I am Japanese." Japan自体を子供達は知らないため役に立ちません。Identity Crisisです。6歳の子供には重すぎます。地獄の一丁目にきてしまったのではと慄いた記憶があります。

ところが、「捨てる神あれば、拾う神あり」です。数ヶ月経つとホンダという名前の「神様」が降りてきました。当時の南ローデシアではオートバイのモーターレースが高い人気を誇っていました。当時の世界チャンピオンだったのがJim Redmanという南ローデシア人で国の英雄でした。当時ホンダのマシーンで世界を席巻していました。ホンダのチームが南ローデシアに転戦してくると、唯一の日本人家族ということでピットに呼ばれます。そこでJimと握手したり、写真を撮ったり、サインをもらったり、夢のような世界です。そこで得た獲物を翌日、学校に持って行きました。教室の皆んなに見せつけるためです。その際は、見せるだけでなく、皆んなの分も今度Jimが転戦してきた時に貰ってくるなどのリップサービスなどはしたと思います。

この行為が学校での環境を大きく変えました。

周りの子供達の態度が急変します。今まで「変な黄色い野郎」としか見られていなかったのが、「こいつ、英雄のJimを知っている、更にはJapanという国はホンダのバイクを作っている凄い国、こいつはそこから来た」と見られるようになりました。見られ方が変わった、立ち位置が変わったのです。それだけで地獄から天国に導かれた感覚です。

南ローデシアにはそのご6年ほど滞在しましたが、子供心に絶えず立ち位置の戦略を持っていました。

「クラスで必ず3番手に見られる」工夫です。そのKPI(評価軸)は同じクラスの女の子たちのBirthday Partyの日に彼女たちの自宅に呼ばれるかどうかです。通常、男の子からは3人選ばれてPartyに参加できるという不文律のルールがあり、そこに選ばれるかどうかがクラスの中の男子生徒の立ち位置が決まります。 

さすがに、白人の世界ですから一番手を狙うのは無理です。さらに、2番手は通常、一番手の白人の子供への対抗馬として、当然ながら白人が入ります。すると日本人にとっての狙い目は3番手をキープすることです。すでに、ホンダ、Jim Redmanのブランドは手に入れていたのですが、それに加え、「算数」を活用しました。当時、一般的に海外に滞在する多くの日本人子女は数学や算数が強いと言われていました、

多分、「九九」を習得する時期が日本人は早いことが背景です。ご多分に漏れず、自分もクラスの中では算数が得意で、それをクラスの子供達に教えるという立ち位置を確保することができました。

南ローデシアでの経験は自分に人間関係の原理原則は何かを体験させてくれました。今日に至るまで、「自分がどう相手から、周りから見られているか」を絶えず意識します。

更には「相手や周りにどう役に立つか」を考えます。「役に立つ」と見られるか、「役に立たない」と見られるかで天国に登るか地獄に落とされるかです。

社会的動物と宿命づけられている人間にとっては周りの「役に立つ」ことが立ち位置をつくる上での鍵です。自分は「どこで役に立つのか、何を持って貢献するのか」自問自答、行動で示すことが大事です。