2023年11月10日金曜日

信長のコミュニケーション力学とは ”その本質に迫る!”

戦国時代は世界でも稀に見る「戦いの世紀」でした。それは応仁の乱(1467年)が始まってから大坂夏の陣(1615年)が終わるまでの約150年間です。この間に日本の兵力基盤は世界有数に成長します。

16世紀当時、イギリスの総鉄砲数約6,000丁に対し、肥後の戦国大名・竜造寺隆信は約9,000丁所有していたと言われています。

また、当時、ヨーロッパで最も大きな国だったスペインの軍事力は78万人。それに対して、戦国時代に拡大した日本全体の軍事力は1525万人に上り、朝鮮出兵の際に豊臣秀吉が動員した兵力は15万人に達すると言われています。いかに戦国時代が武力衝突が日常化し、戦いに明け暮れた150年だったことかが分かります。

日本全体が「猫も杓子も」日々の戦いの中で生存を賭けて様々な「力」を模索する事態です。

すると、面白いことに、武力の増強以上に戦国大名と言われる日本のリーダーたちのコミュニケーション力が飛躍的に高まります。それは何故かと言うと、戦国時代は勝つためには猫の手も借りたい切羽詰まった事態だからです。

兵力を消耗する武力衝突を避けて、他に利用できる力を追い求めます。結果、行き着いた先が今で言う「コミュニケーション」(受信戦略発信を工夫する)です。人を殺すのではなく、人の意識を囲い込むことによって目的を達成すると言う”もう一つの選択肢を持つ発想が生まれてきます。人の意識を囲い込む最強の武器が「コミュニケーション」という認識です。

当時、戦い方が局地戦から総力戦の体をなしてきました。局地戦ではいざこざレベルの衝突で終わりますが、戦国大名同士の戦いは、”負ければ=滅ぶ”と言うことで猫も杓子も使い切って勝つという総力戦に移行します。すると、戦い方の「掟破り」が頻発します。従来のやり方とは違った方法で勝ちをとりにいく方向に急速シフトします。そこに武力だけではなく、コミュニケーションを絡ませることによる「勝ち方のInnovation」が起こるわけです。

戦国大名たちは彼らの受信戦略発信のサイクルを回す工夫を通じて総力戦に勝っていくことを宿命づけられ、否応なく、勝つためのコミュニケーション力を覚醒させていきます。現代を含めて歴史的に見ても、戦国時代ほど日本のリーダーたちのコミュニケーション力が高まった時期はなかったと思います。


戦国大名の代表格を挙げると、西から大友宗麟、毛利元就、長宗我部元親、織田信長、浅井長政、徳川家康、今川義元、北条早雲、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗など誰もが知る名前が出てきます。

そして、このリーダーたちの中でもコミュニケーション力がダントツに高いのが織田信長です。

信長というと「天下布武」と言うビジョンを掲げて武力で天下統一を目指したイメージがありますが、彼ほどコミュニケーションの力を駆使した戦国大名はいません。武力依存だけでは、天下統一の道筋を30年(家督相続から本能寺の変まで)という短期間でつくることは不可能です。

天下統一だけでなく、信長は日本を中世から近世を通り越して近代の一歩手前までもっていったリーダーと言えます。その後、徳川家康の天下になってからは日本は近世に引き戻された感がありますが、戦国時代の動乱を逆手にとって、多くの人々の意識を囲い込み、ある意味で日本人の意識の変容(Transformation)を成し遂げたリーダーとして日本史上、稀な存在です。

信長のコミュニケーション力学を支える要素とは何か。その本質については、これからも時あるごとに紹介して行きたいと思います。

そこには現代でも通用する戦略コミュニケーションの発想が数多く秘められています。