2024年3月14日木曜日

本と対話する

 「積読」(つんどく)という自分流の読書法を長年やってきました。本を買ったら「読む」と言うより、部屋中に「積んで置く」というやり方です。一種の自分流本との付き合い方です。本は読みますが、世に言う「読書家」とは程遠い存在です。何故なら「読むのが実に遅い」、「しきりと本に書き込みを入れる」、「飛ばし読みが下手」などの理由があるからです。本を早く読む人を見るといつも羨ましく思います。

ただ、本との“出会いは人との出会いと同じであると感じることが大事だと思っています。「本を読む」というよりは「本と対話する」感覚です。本との関係は読んだら終わりということではなく、繰り返し、繰り返し、出会う。その都度、新たな発想が降りてくる。

具体的には、先ずは、タイトルと目次、著者の経歴、書評などから「何らかのご縁がある」と感じられた本を買います。買った本の多くは読みきりません。中にはタイトルだけで買い、ページを開いていない本も多数あります。それらを積んで置く訳です。結果、部屋の中は多くの本が雑然と積み上がったカオス的な状態になっています。これが本との出会いの空間を作り出します。

朝起きてふっと目についたタイトルに引き寄せられ、その本に手を伸ばす。本を開くとすでに7年前に完読したことに気づく、パラパラとページをめくって行くと傍線が引かれている箇所や手書きで書き込まれた文章が目につく。本に残された過去のそれらの痕跡を追っていくと最初に読んだ時とは全く違う印象が生まれ、新たな発想が降りてきます。それは最後に読み終わった時から今に至るまでに自分の中に蓄積されてきた経験により、こちらの受け取る側の感度がより高まった結果だと思います。

よく若い時分に読んだ古典の本が当時はちんぷんかんぷんで理解不能だったのが今読むと「わかる!」といった感じです。”旧友と出会い、久々に話をした”感覚です。

「積読」を行う上で重要なことは、先ずは本を部屋中に「積んで置く」、読書空間を確保することが不可欠になります。部屋じゃなくても構いません。昔、押入れとかタンスの中などを利用した記憶があります。そして本との出会を人為的に行うのではなく、偶然性に任せる開き直った姿勢が必要です。本との偶然の出会いを楽しむことです。規則的に本を選ぶのではなく、考えずに選ぶことが基本です。

自分にとっては、この自分流読書術である「積読」は、何故か大変心地がいい。本を読むぞと構えなくていい。本との日々の出会を楽しめる。本との対話を繰り返す中で、結果、沸々と活力が湧いてきます。自分を活性化する一つのの方便だと思っています。そこには人との出会いに通じるものがあります。

ただ一方で、本と向き合う際に、いくつか気をつけていることがあります。

一つは、「知識よりも発想」です。知識は大切ですが、ネット社会では情報入手の方法は多様であり、「本」に知識を求める時代ではなくなっています。これからは知識を蓄積するより、発想を積み上げ、その発想で自らを武装する。そして人生を生き抜いていく時代です。

長年、自分の読書に対してある種の劣等感を持っていましたが、その原因は本に知識を追い求めたことでした。そのため、読むのが遅い=知識習得が遅いと思い込みがちでした。「積読」も読むのが遅いから本が積まれていくのだろうと思い込んでいました。ところが最近は自分が培ってきた「積読」という読書法が実は発想を創出するのに有効であることに気がついた訳です。

二つ目は「本に読まれるな!」です。

「しばらく本を読むのも良いが、できるだけ早くそれを擱く(おく)ようにしないといけぬ。本を読むことを止めぬと、文字の学問だけをやるような癖になる。」鈴木大拙。

世界に禅を普及させた鈴木大拙の言葉です。

万巻の書を読んできたがごとく、本を手当たり次第読んでいるような人にたまに出会います。機関銃のように口から多くの言葉が休みなく飛んできます。一瞬、その言葉の連射に怯むのですが、しばらくすると相手の話している内容が実に空虚に感じられてきます。その原因は語っている言葉が全て借り物の言葉で「自分の言葉」になっていないからです。これが「本に読まれる」ということです。

本との対話は一種の「格闘技」です。「読むか、読まれるか」の真剣勝負です。

本田宗一郎も鈴木大拙と同様に知識に対する警鐘を鳴らします。

「知識は役に立たねばただのお荷物。本に書いてあることは、みんな過去のこと、だからただ鵜呑みにしてはならない。未来に役立たない知識なら、それらを捨ててこそ、未来が考えられるのである。」(本田宗一郎)。

「本に読まれる」とは、本の内容を鵜呑みにすることです。知識として得たものを、今一度、自分の中で腹落ちさせる。そこから新たな発想を生み出す。これが知識の自分ゴト化です。知識を役に立たせるとは発想を掴むことです。これがないと「自分の言葉」は出てきません。知識の鵜呑みからは発想は生まれません。

最後は、「経験という本を読む」ことです。

本田宗一郎は徹底した実践の人でした。現場・現実・現物と真剣に向き合い、「経験」というチャネルを通じて創意工夫を凝らしてきた人でした。言い換えれば、経験という本を絶えず読んでいた人でした。

「学んだことはすぐ実践。見たり、聞いたりしただけの知識は本物ではない。大切なのは、それをすぐに実践で試してみることである。そうすれば本物の知識が宿り、創意の芽も自然に生まれてくる」(本田宗一郎)。

本は文字のみで内容を表現しますが、経験は文字だけでなく五感六感をフルに働かせ、文字だけでは表現しきれない現場の実態をより多面的に立体的に直接とらえます。まさにトライ・アンド・エラー(try and error)という実体験を触媒に本質を掴む発想がこれからますます大事になります。そのためには「自分の経験」というを絶えず読み込んでいく覚悟が必須です。

2023年11月24日金曜日

対話は格闘技、真剣勝負!戦いのコミュニケーションのすすめ

 対話は格闘技です。会話と違って相手を動かすための力の行使です。相手を動かすか、相手に動かされるかの真剣勝負です。

対話の目的はあくまで、こちらの意図に沿って相手に動いてもらうことで、議論して相手を打ち負かすことではありません。議論に勝っても逆に、相手は動かなくなってしまいます。

対話と言えば、普通は「仲良くする」「相互理解をはかる」などの表現で説明しますが、何故か「対話は格闘技だ!」と言った方が自分にはピンときます。実際のところ、トレーニングや講義では始まりの表紙として巌流島に在る「武蔵と小次郎」の戦いを描いた銅像の写真を良く使います。

 

何故、自分はこのように発想するようになったのか、その背景を考えてみました。 

そもそも仕事として「コミュニケーション」と出会ったのは戦いの中でした。ホンダにいた時です。

戦いとは1980年代、日米自動車通商摩擦です。アメリカで日本自動車メーカー(ホンダ、トヨタ、日産)の市場シェアが急増、米国車の販売が激減する中、米国自動車メーカーは従業員の大幅な一時解雇(レイオフ)に踏み切ります。結果、「日本自動車メーカーは不当な競争力で市場シェアを拡大、アメリカ人の雇用を奪っている」と言う一大反日キャンペーンが米国自動車メーカー(GM, Ford, Chrysler)や米国自動車組合(UAW)主導のもと全国展開され、反日世論が米国内に急騰します。

この事態の根本的な原因はアメリカの自動車市場の需要構造が大きく変わったことです。1970年代の2度にわたる石油ショックによって需要が大型車から小型車に急激にシフトしたことによります。当時、米国メーカーは小型車を作っておらず、小型車の代名詞であった日本車が飛ぶように売れる状況になります。 

反日世論が急速に拡大しているにも関わらず、日本車の販売は至って好調で、千ドル、二千ドルとプレミア付きでも売れる環境でした。ホンダは日本車の中でもブランドは高く販売への影響はありませんでしたが、反日世論の動向には非常な警戒感をもっていました。その理由は、ホンダの北米での「現地化戦略」の推進に支障をきたすのではとの大きな懸念です。当時のホンダの現地化戦略というのは販売に加え、生産、開発とアメリカで展開、一貫した事業体制の構築を目指すことでした。

 

私は反日キャンペーンが盛んに展開される中、1983年にアメリカでの広報部門立ち上げのメンバーとしてワシントンD.C.に赴任しました。与えられたミッションは「アメリカの世論をホンダの味方にする」ことです。

正直、途方に暮れました。今まで車をつくる現場や車を売る最前線は経験してきましたが、「世論を味方にする」など想像の枠外です。

試行錯誤の日々が続きます。7年かかりましたが、最終的には「アメリカの世論がホンダの味方になってくれた」を象徴する出来事が起こりました。

1989年秋にホンダ創業者本田宗一郎さん(当時82歳)が日本人として初めてアメリカ自動車産業の殿堂入りを果たしたことです。

この7年間の「戦い」の本質はBig 3GM, Ford, Chrysler)/米国自動車組合(UAW) vs ホンダの間でのアメリカの世論支持の奪い合いです。

その時に唯一頼れたがコミュニケーションでした。商品力、ブランド力、財務力などで消費者、販売店、投資家など一部のステークホルダーの支持は取り付けられますが、世論となると歯が立ちません。

結局、ホンダが企業として真摯に世論や社会と対話する以外には道がありませんでした。その中でホンダがアメリカの自動車産業やアメリカ社会にとって必要な役にたつ存在であると認知される、見られることがホンダのアメリカでの企業活動の生命線でした。

7年間に渡り、コミュニケーションを武器に戦った原体験が「コミュニケーションとは?」に対して

「格闘技です」と即答する発想のが付いたのだと思います。

40年以上に渡り、コミュニケーションの修羅場を潜ってきた経験値からは一つの実践的で有効なコミュニケーションへのアプローチ発想です。

2023年11月10日金曜日

信長のコミュニケーション力学とは ”その本質に迫る!”

戦国時代は世界でも稀に見る「戦いの世紀」でした。それは応仁の乱(1467年)が始まってから大坂夏の陣(1615年)が終わるまでの約150年間です。この間に日本の兵力基盤は世界有数に成長します。

16世紀当時、イギリスの総鉄砲数約6,000丁に対し、肥後の戦国大名・竜造寺隆信は約9,000丁所有していたと言われています。

また、当時、ヨーロッパで最も大きな国だったスペインの軍事力は78万人。それに対して、戦国時代に拡大した日本全体の軍事力は1525万人に上り、朝鮮出兵の際に豊臣秀吉が動員した兵力は15万人に達すると言われています。いかに戦国時代が武力衝突が日常化し、戦いに明け暮れた150年だったことかが分かります。

日本全体が「猫も杓子も」日々の戦いの中で生存を賭けて様々な「力」を模索する事態です。

すると、面白いことに、武力の増強以上に戦国大名と言われる日本のリーダーたちのコミュニケーション力が飛躍的に高まります。それは何故かと言うと、戦国時代は勝つためには猫の手も借りたい切羽詰まった事態だからです。

兵力を消耗する武力衝突を避けて、他に利用できる力を追い求めます。結果、行き着いた先が今で言う「コミュニケーション」(受信戦略発信を工夫する)です。人を殺すのではなく、人の意識を囲い込むことによって目的を達成すると言う”もう一つの選択肢を持つ発想が生まれてきます。人の意識を囲い込む最強の武器が「コミュニケーション」という認識です。

当時、戦い方が局地戦から総力戦の体をなしてきました。局地戦ではいざこざレベルの衝突で終わりますが、戦国大名同士の戦いは、”負ければ=滅ぶ”と言うことで猫も杓子も使い切って勝つという総力戦に移行します。すると、戦い方の「掟破り」が頻発します。従来のやり方とは違った方法で勝ちをとりにいく方向に急速シフトします。そこに武力だけではなく、コミュニケーションを絡ませることによる「勝ち方のInnovation」が起こるわけです。

戦国大名たちは彼らの受信戦略発信のサイクルを回す工夫を通じて総力戦に勝っていくことを宿命づけられ、否応なく、勝つためのコミュニケーション力を覚醒させていきます。現代を含めて歴史的に見ても、戦国時代ほど日本のリーダーたちのコミュニケーション力が高まった時期はなかったと思います。


戦国大名の代表格を挙げると、西から大友宗麟、毛利元就、長宗我部元親、織田信長、浅井長政、徳川家康、今川義元、北条早雲、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗など誰もが知る名前が出てきます。

そして、このリーダーたちの中でもコミュニケーション力がダントツに高いのが織田信長です。

信長というと「天下布武」と言うビジョンを掲げて武力で天下統一を目指したイメージがありますが、彼ほどコミュニケーションの力を駆使した戦国大名はいません。武力依存だけでは、天下統一の道筋を30年(家督相続から本能寺の変まで)という短期間でつくることは不可能です。

天下統一だけでなく、信長は日本を中世から近世を通り越して近代の一歩手前までもっていったリーダーと言えます。その後、徳川家康の天下になってからは日本は近世に引き戻された感がありますが、戦国時代の動乱を逆手にとって、多くの人々の意識を囲い込み、ある意味で日本人の意識の変容(Transformation)を成し遂げたリーダーとして日本史上、稀な存在です。

信長のコミュニケーション力学を支える要素とは何か。その本質については、これからも時あるごとに紹介して行きたいと思います。

そこには現代でも通用する戦略コミュニケーションの発想が数多く秘められています。

2023年11月2日木曜日

「立ち位置の原体験」“ホンダ“という神様が降りてきた!

昔話をします。誰しもいろいろな原体験を持っています。
自分自身もさまざまな原点となる経験を経て今日までに至っています。多くある原体験の中で自分が初めて「人間関係の原理・原則」を思い知らされた原点があります。

6歳の時に当時アフリカに南ローデシアという国がありました。今のジンバブエという国です。親の仕事の関係で日本人として初めて親子3人で移り住みました。当時の南ローデシアは英国の自治領として白人国家を形成しおり白豪主義を実践していました。白豪主義とは一種の人種差別政策で白人はホワイト、それ以外の人種はカラード(色つき)と差別され、ホワイト専用のレストラン、トイレ、居住区、学校などカラードとは別の生活空間が設定されていました。当然ながら、肌の色からすると日本人はカラードです。ところが、幸か不幸か日本人だけは名誉白人と認定されました。日本との国交が樹立されたことが背景にあります。

肌の色は黄色です、でも名誉白人だと明記したプラカードを肩からかけているわけでもないので、白人のトイレに入れば追い出される、レストランは入れてくれない。住む場所が見つからないなどなどの事態に見舞われました。学校は白人の学校しか存在せず、初めて登校したときは、校長先生の部屋で親同伴で挨拶していると部屋の大きな窓いっぱいに、白人の子供達の顔で埋め尽くされました。彼らにとっては一大事です。黄色い奴が入校してきたということで大騒ぎです。教室に入っても無視されるか、質問攻めです。英語もわからず、唯一、覚えた "I am Japanese." Japan自体を子供達は知らないため役に立ちません。Identity Crisisです。6歳の子供には重すぎます。地獄の一丁目にきてしまったのではと慄いた記憶があります。

ところが、「捨てる神あれば、拾う神あり」です。数ヶ月経つとホンダという名前の「神様」が降りてきました。当時の南ローデシアではオートバイのモーターレースが高い人気を誇っていました。当時の世界チャンピオンだったのがJim Redmanという南ローデシア人で国の英雄でした。当時ホンダのマシーンで世界を席巻していました。ホンダのチームが南ローデシアに転戦してくると、唯一の日本人家族ということでピットに呼ばれます。そこでJimと握手したり、写真を撮ったり、サインをもらったり、夢のような世界です。そこで得た獲物を翌日、学校に持って行きました。教室の皆んなに見せつけるためです。その際は、見せるだけでなく、皆んなの分も今度Jimが転戦してきた時に貰ってくるなどのリップサービスなどはしたと思います。

この行為が学校での環境を大きく変えました。

周りの子供達の態度が急変します。今まで「変な黄色い野郎」としか見られていなかったのが、「こいつ、英雄のJimを知っている、更にはJapanという国はホンダのバイクを作っている凄い国、こいつはそこから来た」と見られるようになりました。見られ方が変わった、立ち位置が変わったのです。それだけで地獄から天国に導かれた感覚です。

南ローデシアにはそのご6年ほど滞在しましたが、子供心に絶えず立ち位置の戦略を持っていました。

「クラスで必ず3番手に見られる」工夫です。そのKPI(評価軸)は同じクラスの女の子たちのBirthday Partyの日に彼女たちの自宅に呼ばれるかどうかです。通常、男の子からは3人選ばれてPartyに参加できるという不文律のルールがあり、そこに選ばれるかどうかがクラスの中の男子生徒の立ち位置が決まります。 

さすがに、白人の世界ですから一番手を狙うのは無理です。さらに、2番手は通常、一番手の白人の子供への対抗馬として、当然ながら白人が入ります。すると日本人にとっての狙い目は3番手をキープすることです。すでに、ホンダ、Jim Redmanのブランドは手に入れていたのですが、それに加え、「算数」を活用しました。当時、一般的に海外に滞在する多くの日本人子女は数学や算数が強いと言われていました、

多分、「九九」を習得する時期が日本人は早いことが背景です。ご多分に漏れず、自分もクラスの中では算数が得意で、それをクラスの子供達に教えるという立ち位置を確保することができました。

南ローデシアでの経験は自分に人間関係の原理原則は何かを体験させてくれました。今日に至るまで、「自分がどう相手から、周りから見られているか」を絶えず意識します。

更には「相手や周りにどう役に立つか」を考えます。「役に立つ」と見られるか、「役に立たない」と見られるかで天国に登るか地獄に落とされるかです。

社会的動物と宿命づけられている人間にとっては周りの「役に立つ」ことが立ち位置をつくる上での鍵です。自分は「どこで役に立つのか、何を持って貢献するのか」自問自答、行動で示すことが大事です。

2023年10月27日金曜日

「強かな立ち位置」をつくるとは? “強かに考えるな!“

立ち位置とは何か。「周りからどう見られるか」です。

個人も、企業も、国も周りからどう見られるかで、個人であればその人生、企業であればその存続、国であればその行末が決まると言っても過言ではありません。

そこで、生き抜いて行くための「強かな立ち位置」とは何か、その本質を考えていきたいと思います。

 

立ち位置はコミュニケーション力によって作られることは、別の稿で話をしました。

強かな立ち位置をつくれるか否かは、その人、企業、国が持っているコミュニケーション力(能力)に依存する訳です。

では、強かな立ち位置をつくるにはどうすればいいのか。普通に考えると「強かに考えて行動、コミュニケーションを図る」という事になります。ところが、コミュニケーションの厄介なところは、「強か」と考えた瞬間に相手はこちらの非言語を通じてそれを察知します。すると「あいつは強かに考えて行動している。気をつけなければ」と逆に用心されてしまいます。人は心で思ったことはすぐ非言語表現となって表に出ます。相手はそれをすぐ察知します。

初めての人と会う時、相手を見た瞬間に「あっ、苦手なタイプ」と心に思った瞬間、それは相手にも伝わります。人は初対面の時、10秒で相手に対する印象を作ってしまいます。逆に言えば、最初の10秒が相手に好印象を与えるチャンスになります。いずれにせよ、「強かに」考えることが「強かな立ち位置をつくる」ことには繋がらないのです。ではどうすれば強かな立ち位置が作れるのか?

結論は「結果、強かだと評価される」ことです。

 

「燃えよドラゴン」で一世を風靡した俳優で格闘家のBruce Leeが残した格言があります。格闘技の奥義を説いたものですが、強かな立ち位置の本質を考える上でも非常に示唆に富んでいます。

 

“Be water, my friend!”

"I said empty your mind. Be formless. Shapeless, like water.
Now, if you put water into a cup, it becomes the cup. You put water into a bottle and it becomes the the bottle. You put it in a tea pot, it becomes a tea pot.
Now water can flow or it can crash.
Be water, my friend."

Bruce Lee 

 

(日本語の訳)

「心を空にせよ。型を捨て、形をなくせ。水のように、コップに注げば、コップの形に、
ボトルの注げば、ボトルの形に、急須に注げば、急須の形に、
そして水は自在に動き、ときに破壊的な力を持つ、
友よ、水になれ。

 

Bruce Lee の発想の背景には中国の古典である「老子」の視座がビルトインされています。
「老子」では究極の強かさの象徴を水とします。
水はどのような容器にも形を合わせます。しかも石をも削る力を持ます。
更には、周りから無くてはならない存在です。このような存在を「老子」は「強かである」と評価します。

しかしながら、「Be water, my friend」と言われても、相手の形に自分を合わせることは至難の業です。最大の敵は自分です。自分の自我エゴ、偏見、先入観、更には、好き嫌いなど越えなければならない壁が立ちはだかります。自分への囚われを無くす。心をゼロにすることが出発点です。

これは「自分との対話」をどれだけ自分に仕掛けられるかです。コミュニーケーションと言うととかく、「相手との対話」だと思われていますが、「自分との対話」あっての「相手との対話」です。
まず、自分をしっかりと整えた上で相手と向き合うことが大切です。

 

「自分との対話」はどうやれば良いのか、更には「結果、強か」を具体的に実施するかについては、自分の経験に基づいた話を別の稿で紹介したいと思います。

2023年10月18日水曜日

立ち位置とは何か

最近、「立ち位置」という表現をよく使います。「これからは企業の立ち位置が問われる」「リーダーとしての立ち位置をつくる」「日本の立ち位置を強くする」など頻繁に使います。また、研修などの場でも「強かな立ち位置をどうつくるか?」と言ったテーマで良く議論を進めます。

そもそも立ち位置とは何か。「立ち位置」と言うと大体の人が頷きますが、その意味を聞くと結構答えに窮する人も多く、曖昧に捉えられているようです。「立ち位置」はコミュニケーションを考える上で非常に重要な意味を持ちます。立ち位置とは周りから「どうみられるか」です。例えば、

社会的動物である人間にとって周りから「役に立つか」「役に立たないか」どちらに見られるかは切実な問題です。どう見られるかによって仕事のみならず、人生そのものが大きく影響を受けます。「立ち位置」によって人間は生かされていると言っても過言ではありません。

立ち位置とコミュニケーションの関係を考える上で、一つの小話を紹介します。

New Yorkerだと自慢するスタッフがいました。生まれも、育ちもNew York、他のアメリカ人とは「違う!」と自負していました。そこで彼に「何が違うの」と質問すると、速攻で「発想が違う!」と答え、例え話を切り出してきました。

New Yorkはご存知のように摩天楼が聳え立つ大都会です。そこには多くの古い高層ビルが立ち並びます。そこで一人のNew Yorkersが古い高層ビルのロビーに入り、最上階に行くために直行便のエレベーターに乗ります。するとNew Yorkerの他に5人の同乗者が乗り込んできました。古いビルですから、エレベーターも遅く、これからどこの階にも止まらず、ゆっくりと時間をかけて最上階に向うことになります。「その時、New Yorkerは何を発想するのでしょうか?」これがスタッフが切り出してきた質問です。皆さんだったらどうしますか?

彼は自慢げにその回答を話し出しました。

「先ず、自分を含めた6人の中で一番弱く見られそうなのは誰かを見極める。」仮に自分が一番弱く見られると判断したら即行動にでます。「ああ!!」と大きな声を出して腕を大袈裟に持ち上げ、自分の時計を見る。そして一言「空手道場に遅れる!」New Yorkerはその後、無事に最上階まで行きます。

たわいの無い話ですが、立ち位置とコミュニケーションの関係性を説明するのに手軽な例えば話だと思います。

New Yorkerの立ち位置は彼が行動する前後で大きく変わりました。彼の行動は3つのプロセスからなっています。先ずは「受信」、そして「発想」、最後に「発信」です。どう見られるかで「受信」、何をメッセージとするかで「発想」、行動するで「発信」です。これはコミュニケーションのプロセスです。立ち位置をつくるのがコミュニケーションです。立ち位置によって人は生かされます。よってコミュニケーションは人を生かすために天からの授かり物と認識することが大事です。

2023年10月3日火曜日

コミュニケーション=「人間交際」?

 そもそもコミュニケーションの日本語はないのか?西洋から来た多くの言葉や概念を日本語化してきた福沢諭吉の“造語リスト”を見ると、「人間交際」という表現が出てきます。これがコミュニケーションという言葉の訳として一番近いのではないかと思います。

残念ながらこの表現は一般には普及しませんでした。福沢諭吉という近代日本を啓発した人物が何故、コミュニケーションをあえて「人間交際」と翻訳したのか、その意図と背景を考えてみました。


その背景の一つが当時の明治人の“悩み”にあった様です。江戸時代は国内での移動が厳しく制約される中で、人々が身分制度によって職業選択の自由が制限されていました。

ところが明治になると移動の自由が認められ、身分制度の廃止により、職業を自由に選択することができるようになります。

現代に生きる我々からすれば当たり前なことですが、当時の人々にとっては青天の霹靂です。

江戸時代においては新たな人と出会う機会は我々が想像する以上に少なく、昔からの“顔馴染み”の中で生活していた訳ですから、人との関係がかなり限定的でした。

ところが明治になると望む・望まないに拘らず、様々なバックグラウンドを持った人々との交流が生じ、人との関係性が複雑かつ流動的になります。人は就いた職業によって新たな関係を築いて行くことが求められるようになります。これが交際慣れしてない多くの人たちにとっては大きな悩みの種になります。当時の明治人の悩みを言い表した文章が夏目漱石の著作「草枕」の冒頭に書かれています。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」

この「住みにくさ」とはある意味で近代社会がもたらしたものです。

 

福沢諭吉は「人間交際」が近代社会が成り立つ上で基本となるベースであるととらえます。

近代社会は市民一人ひとりが様々な知見や経験を持つ人々と自らの責任で関係をつくり、自らの生計をたて、社会を支えると福沢諭吉は考え各個人が「独立自尊」の立ち位置を持つことを大前提に置きます。

独立自尊とは「独り善がり」になるということではありません。「自尊」とは自分をリスペクト(respect)することですが、当然ながらそれは相手へのrespectを前提にします。両者にとっての独立自尊です。

 

福沢諭吉は日本で初めての社交クラブである交詢社を1880年に立ち上げます。今風のクラブではなく、財界人、政治家、文化人、ジャーナリストなど多くの人材が集う場で、交流を通じて様々な分野での創意を結集、発想の“Innovation”を仕掛けます。創発的ネットワーキングです。

 

この人間交際を意味あるものにするのがコミュニケーションの力です。

近代社会の本質とは個々人がコミュニケーションの力を駆使して人と組織、そして社会と繋がり、様々な“Innovation”を起こして行く世界であると福沢諭吉は発想したのではと想像します。